2021-03-23 第204回国会 参議院 外交防衛委員会 第4号
○国務大臣(茂木敏充君) その点は確かに非常に難しい見極めが必要だと思っておりますが、少なくとも米ソ冷戦構造時代とは違っていると思っておりまして、当時の米ソの関係、現在の米中、特に米中の経済関係とはかなり違って、アメリカとそしてソ連の間での貿易、そんなに大きな額を占めていたわけではありませんでした。 ところが、現在、中国は世界第二位の経済大国、それもアメリカの三分の二ぐらいになっていると。
○国務大臣(茂木敏充君) その点は確かに非常に難しい見極めが必要だと思っておりますが、少なくとも米ソ冷戦構造時代とは違っていると思っておりまして、当時の米ソの関係、現在の米中、特に米中の経済関係とはかなり違って、アメリカとそしてソ連の間での貿易、そんなに大きな額を占めていたわけではありませんでした。 ところが、現在、中国は世界第二位の経済大国、それもアメリカの三分の二ぐらいになっていると。
NPRにしましても、冒頭申し上げたような大きな三つの柱のもとで米国は核態勢というのをつくっている、こういう理解のもとで、しかし、現実に今出てきた米ソ冷戦構造とは違う形の、さまざまな核を始めとする脅威に対してどういう対応をしていくか。
そこで、我々は交渉の姿勢として、長門合意で行ったように、かつては、米ソ冷戦構造時代には、大変厳しい環境下ですから、もちろん外務大臣も、例えば、グロムイコ外相とは会えない、もちろん当時のブレジネフ書記長とは全く会えないという状況が長く続いた中において、例えばこちらの言い方を非常に強い姿勢で維持するということは、それは当然のことなんだろう、こう思うわけでございますが、その中で、我々はアプローチを変えて、
六十年前は、アメリカの軍事力は圧倒的であり、また、米ソ冷戦構造という世界規模の対立の中で、我が国の守りの多くは米軍に任され、自衛隊に期待された役割は極めて限られておりました。 しかし、今や世界的なパワーバランスが変化する中で、我が国の守りにとどまらず、日本の各種政策を進める上で自衛隊の活躍がなくてはならないものになっています。
かつて、米ソ冷戦構造時代には、弾道ミサイルを保有していたのは米ソしかなかったわけであります。それが今、相当数の国々が弾道ミサイルを持つようになった。また、核兵器についてもそうであります。
昭和四十七年当時の安全保障環境は、北朝鮮は弾道ミサイルや核兵器を保有していなかった、弾道ミサイルに対抗するミサイル防衛という手段もなかった、当時の米軍の兵力数は現在に比べ強大であった、当時は米ソ冷戦構造時代であった、これが吉國長官が答弁をされたときの時代背景であります。
○内閣総理大臣(安倍晋三君) まさに武見委員御指摘のように、米ソ冷戦構造時代には、ソビエト連邦と日本、ソビエト連邦とアメリカの貿易関係というのは非常に希薄であったわけでありますが、しかし、今は、まさに冷戦構造が崩壊した後は、経済の関係は非常に複雑に、かつ深く広く結び付いているわけであります。
一九六〇年、岸総理は、米ソ冷戦構造の中で我が国の防衛を確かなものにするため、日米安保条約を改定し、米国による対日防衛義務を条約上明記しました。当時は米ソ核軍拡競争が激化し、世界は自由主義と共産主義に二分化され、世界各地の紛争は米ソ対立の代理戦争の形でした。
そして、当時は米ソ冷戦構造時代であったわけであります。 大きく変わった中において、日本は日米同盟を基軸として多くの国々とともに地域の平和と安定を形作っていかなければ日本の安全を守り切ることができない、そのために私は絶対必要な法制であると、このように確信をしております。
○中谷国務大臣 私のときから、長島委員も御存じだと思いますが、米ソ冷戦構造というのは、力の均衡によっていろいろな紛争また対立が抑止されてきたわけでありまして、一九八四年は米ソの力の対立がまさに均衡していたということですが、九〇年にソ連が崩壊して力の均衡がなくなってしまった、これによって各地においていろいろな紛争や脅威が出現したという変化がございます。
そんな中、今回のウクライナ情勢を見ていましたら、二十世紀の米ソ冷戦構造時代へ、時計の針がまるで逆戻しされているように私には見えるんです。冷戦構造はなくなった、元総理までが私に、おまえは何だ、新しい政治家で新しい人間なくせに古いことを言いやがって、もう冷戦構造は終わったんだとおっしゃられた。私はそれを忘れません。そのときに私は思ったんです。
かつては、米ソ冷戦構造下の中にあっては、日本は西側に属し、そしてその中において、基本的には、いわば日本は、米国が主導的に決めていくことにおいて、つき従っていけばいいという状況に近かったと言ってもいいんだろう、このように思うわけであります。 しかし、米ソ冷戦構造が終わりました。その中において、新たな脅威が出てきたわけであります。
つまり、ある意味では米ソ冷戦構造時代が終わった中において、これは米ソ冷戦構造時代には米国とソビエト連邦というスーパーパワーが世界を二分をしていたわけでありまして、日本は西側陣営に属していたわけでございますが、その中で日本はむしろ積極的な役割を担っていくというよりも、これは基本的にこの自由世界のリーダーである米国とともにというか、米国にある程度、の方針に沿っていくという側面も強かったんだろうと、こう思
こういうふうに三十二の都府県に存在するということは、これはさかのぼって考えますと米ソ冷戦構造時代のものであります。独立国家としての品格といいますか、そういう面から見ても、あるいは抑止論だとかいうことも言われておりますが、そういうのも含めて、今の時代にやはりその在り方について検討する時期に来ておるんだろうと思います。
経済のグローバル化、その特に中心となったのは金融のグローバル化でございまして、御専門の方はいろいろおられると思いますが、その金融のグローバル化、私に言わせれば、一九八九年にベルリンの壁が崩壊しまして、二年後にソ連というのが崩壊したわけでございまして、ソ連帝国が崩壊して、御存じのように、東アジアの、ソ連の衛星圏の国がほとんど自由主義市場になる、あるいは中国が完全に改革開放で自由主義経済、言うなれば米ソ冷戦構造
内需主導への転換は延々と言われ続けてきた課題だと思うわけですが、バブルの発生と崩壊、そして米ソ冷戦構造の終結と途上国の台頭による経済のグローバル化といった、前川レポートが想定していなかった事態が起こったことは事実ですが、なぜ転換できなかったのか、大臣のお考えをお伺いしたいと思います。
やはり私は、二十一世紀の物すごく大きな問題としてそういったことが、これはニューズウイークでございますが、超格差社会というふうにニューズウイークが出していますけれども、まあ世界じゅうでグローバリズム、あるいは前回も言いましたけれども、特にアメリカを中心として、丹羽宇一郎さんが文芸春秋の三月号にも書いていますけれども、米ソ冷戦構造が終わった後アメリカの資本主義が暴走し出した、もうだれも止めることができないんだと
ひょっとしたらあの湾岸戦争も、米ソ冷戦構造の壊れた結果から生まれた部分もあったのかもしれません。 総理の今のお答えの中で私なりに解釈いたしますと、大きな戦後のレジームの変化あるいは二十一世紀の変化につながるものというのは、一つは、政治の壁、東西の壁がなくなったということでありましょう。それから、市場のグローバル化ということも総理はおっしゃられたと思うんです。
しかしながら、その当時は米ソ冷戦構造の中でそういうような役割でよかったかもしれませんが、その後、世界が非常に目まぐるしく動きまして、国際環境の中で日本が平和と安全を保っていく、そういうような、我が国自身の安全を守るためにもそういう国際環境を無視した形ではやれなくなってきた。
○国務大臣(麻生太郎君) 基本的には今、戦後の少なくとも一九八〇年末、まあ約一九九〇年までの約五十年間は間違いなく米ソ冷戦構造という状況が続いておりました。